シリコンバレーロックダウン後日記

起点はシリコンバレーがロックダウンされた2020年3月。2021年6月、シリコンバレーのロックダウンが解除されてから、シリコンバレーと世界がどのように回復に向かっていくのかを日記に記録してみようと思う。

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逃避と認知はどっちが楽なんだろう(ティア2)

昨日ワクチンについて書きながら、ちょっと事実と違うことを書いているなと認識していた。ワクチンさえあれば、人々が免疫を手に入れれば、もとの生活が戻ってくることはわかっている。」と書いたけれど、文章の流れ上、まるでワクチンが完成して承認されれば、すぐにでも元の生活に戻れるかのような書き方になっていて、自分でも気になって仕方がなかった。なぜなら、その認識は正しくないからだ。

そんな折、本日、ファウチ博士がニュース番組で丁度その話をしていたので、紹介しておきたい。ワクチンが承認されて摂取できるようになっても、すぐにパンデミック前の生活が戻ってくるわけではない。ワクチンが大量に生産され、米国の住民の過半数以上の人々によって摂取されることにより、広範囲にその効果が広がることが、人々が「元の普通」の生活に戻るための条件となるからだ。ファウチ博士が今日ニュースで伝えたように、実際にパンデミック前の生活が戻ってくるのは、たとえワクチンが今年の末、または来年の初めに承認された場合でも、来年の後半以降になるだろう。

だからといって、絶望する必要はない。いや、今のように4万人の感染者、1千人の死者を今後一年間に渡り毎日出し続けるのであれば、絶望するべきだが、多分そうなる前に今より多くの人々が今よりも学んで、もしくは学ばされて、感染を抑えるための「新しい普通」に適応していくのではないかと思う。

感染者の数を低く抑えてコンタクトトレースが徹底できれば、パンデミック前の生活は戻ってこなくても、ある程度の「新しい普通」の生活は戻ってくる。実際、ヨーロッパの都市は、程度の差はあれ「普通に近い」生活が戻っているし、感染拡大を抑え続けているカリフォルニアの一部の地域でも、規制枠内ではあるけれど、徐々に「普通に近い」生活が戻り始めている。私達が絶対にやってはいけないことは、根拠もないのにウィルスが消えてしまったかのような幻想をいだいて、ただ闇雲にパンデミック前の普通の生活にジャンプインすることだ。

そんな折、大統領選を11月に迎える米国では選挙活動が活発になり始めた。今週の木曜日にもミシガン州で現大統領の選挙活動が行われのだが、一部の熱狂的な共和党支持者の中には、相変わらずマスクを着用せず、ソーシャルディスタンスもとらない状態の参加者が多かった。メディアが、なぜマスクをしないのか質問しているニュースが流れたのだが、彼らは一貫してパンデミックは作り話であるとか、大げさに報道されているだけで実際にはそんなに深刻ではないという主張を繰り返していた。また、心臓麻痺や交通事故で死ぬ人のほうが多いし、人は死ぬときは死ぬのだから、パンデミックだけを特別に恐れる必要はないと主張している人もいた。まあ、確かに人の生死は本人の自由かもしれないけれど、その行動により他の人に感染を広めてしまう可能性についてはどう考えているのかが気になるが、こういう主張をする人には、大抵の場合何を言っても無駄だろうなと思った。

どうしても気になるのは、パンデミックをでたらめだ、大げさだと主張し続ける人たちの存在だ。これだけ世界中で報道されていて、米国だけでも19万人の死者を出しているというのに、まだ信じていない人たちがいるのは不思議だ。それも、ウィルスの致死性や深刻性を認めることに消極的だった大統領でさえ、最近は認めざる得ない発言を繰り返しているのにもかかわらず、未だにパンデミックの存在を疑っている人々がいる。なぜだ?

そこにあるのは、多分逃避だ。現在の米国の状況を認めたくないのだと思う。トップ先進国の中にあって、パンデミックをここまで広げ、まったく抑えることができていないのは米国だけだ。たとえば、国際線を普通に飛ばせなくなった米国の航空会社が倒産や大幅な人員削減を検討しているというのに、お隣のカナダではごく普通に国際線が飛んでいたりする。米国は、エピデミックが始まってからというもの、一回も感染を抑え込めたことがない。4月ごろ少しだけ抑えることができそうだった時期があったが、そのタイミングで経済再開を急いだ結果、感染者も死者も一時的にほんの少し減少しただけで、またたく間に増加傾向に戻ってしまった。

そんな現状を認めたくない。その心情はわからなくもない。褒められない現状を認めるのは屈辱であり苦痛だ。そのうえ、認めてしまえば、不自由な「新しい普通」の生活が待っている。

ファウチ博士は、このパンデミックを抑え込むには、まず現状を正しく把握し認知することが重要であると語った。現状を認知して初めて、対策のための理由づけができる。もしパンデミックの存在を認知していなければ、マスクをするとか、集会を避けるという感染防止対策を一蹴にしてしまうのは無理のないことなのだ。

自分が認めたくない事を認めるのは苦しい。

たとえば、勉強をしなくてはいけない時間に、しなくてもなんとかなると逃避する。面倒な書類の整理も、別にやらなければ、やらないでなんとかなると逃避する。悪い評価を受け取ったときは、評価する側に問題があり自分の責任ではないと逃避する。小さな逃避から大きな逃避まで、誰にでも少しは覚えがあると思う。覚えがあるからこそ共感できるのではないかと思うのだけれど、逃避している間というのは、やりたくないことをやらずに楽をしている。それなりに楽しく過ごしている。だけど、深層心理では問題を先送りにしていることに気づいているので、精神的に不安定になりがちだ。漠然とした不安がつきまとうし、逃避を他人に指摘されたりすると、カッと頭に血が昇ったりする。そんな経験が誰にでもあるのではないだろうか。それが逃避が生む負の感情だ。

じゃあ、逃避しないで認知をするとどうだろう。こちらは最初から苦しい。やらなくてはいけないことや、厳しい現状、自分に対する悪い評価を、受け止めるのは簡単なことではないので、こちらの場合は深層心理ではなくて、明示的に負の感情、ストレスが存在する。辛い現状を認知すれば、そのために面倒な行動を起こさなくてはいけないことがほとんどだ。まったく負の感情なく、最初から最後まで楽しくこなせる人なんかいないと思う。ただ朗報は、一度問題を認知してしまえば、それが最悪地点となり、その後は問題を解決しつつ浮上していくことができるところだ。楽ではないかもしれないが、すべてが明示的認知されている分、少なくとも得体のしれない不安や負の感情に悩まされ続けることがない。

逃避と認知。「正しい選択肢」がどちらなのかは明らかだ。しかし、人間は正しいばかりでは生きていけない。では、いったいどちらが、総合的には「楽な選択肢」になるのか。これはパンデミックに限らない永遠のテーマのような気がする。

  

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